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投稿日時
――たった一度
“かわいい”の構造を覗き込んだだけで
私の内側が見栄で満ちた
プラスチックみたいになった。
私はSNSという、正体不明の文化祭に
迷い込んでしまった客のような場所に
うっかり毎日ログ インしてしまっている。
そこには、きらびやかな
インフルエンサーたちが
何やらまことしやかに
でも堂々と自分自身を売りさばいている。
しかも、売れている。売れまくっている。
これが資本主義ってやつか
と私はとりあえずお茶を飲んだ。
なかでも、ある日出会った
お人形さんのような彼女。
可愛さが過剰に完成されており
顔も声もポーズも
ついでに飼ってる猫までもが
「演出」されていた。
そう、可愛いというより
「構成されて」いたのだ。
私は、うっかり夢中になってしまった。
ネイル、髪型、服
すべてが彼女の影に染まってゆく。
鏡に映る私は、なんとなく
「彼女っぽい誰か」になりつつあり
しかもそれにうっすら満足していた。
「そうか、これが流行という名の寄生だな」
などと、自己分析している時点で
オシャレ偏差値がゼロであることに
私は気づかないふりをした。
それだけではない。
私は勇気を出して、彼女の行きつけという
美容院にも行ってみたのだ。
だが、そこは
私が思っていたような場所ではなかった。
雰囲気が、なんというか…
…筋トレ中の脳内BGM
みたいなテンションなのだ。
鏡の前に座った瞬間
美容師さんの目がキラリと光る。
「前髪どうします?」という一言が、なぜか
「お前、ここがどこかわかってるのか?」
に聞こえる。
私は縮んだ。
内心では、体育の跳び箱を前にした
小学三年生のように震えていた。
「自分、何段から飛べるんすか?」
と聞かれても、私は既に家に帰りたかった。
それ以来、美容院には行っていない。
もちろん元の馴染みの店に戻った。
そこは、「雑誌は女性自身しかない」
ようなところだが
私のことを「いつもの感じですね~」
と覚えていてくれる
なんだか優しい空間なのだ。
思えば、インフルエンサーとは
“クラスの一軍”が社会という
メガ進研ゼミで更に研磨された存在なのだ。
あれはもう、ひとつの完成形である。
一方、私はといえば、クラスの隅っこで
給食袋をチマチマ畳んでいた側の人間だ。
注目されたら即座にしぬ。多分しぬ。
いや、しんだふりをする。
でもまあ
それでもいいじゃないか、と最近は思う。
削れない鉛筆の芯でも
メモくらいは書けるし
水彩で絵くらいは描けるのだ。
スポットライトは当たらなくても
窓から差し込む日光が私を照らしてくれる。
それで十分だ。たぶん。
ただひとつ、今もこっそり
彼女のインスタだけは見ている。
可愛いなあ、と思いながら、明日も私は
「いつもの感じですね~」の美容院で
前髪をちょっとだけ
整えてもらう予定である。
?アカリ?
投稿日時
――そう呟いたのは、私ではない。
ブケファラスだった。だなんて
誰に言えば信じてくれるだろうか。
私は日々、我が忠実なる愛馬
ブケファラスに跨がることを常としている。
愛馬といっても
ギリシア神話のそれではない。
さりとて実馬にあらず。
現代の冴えない町角を疾走する
少々くたびれた自転車のことである。
だが、私にとってそれは
アレクサンドロス大王の如く
この世を征服する夢の残響だった。
空気を裂き、風を馳せる
その黒き車輪の勇姿に、私は密かに
己の矮小なプライドを託していたのだ。
されど人は忘却の生きものよ。
私は度々、この忠実なる従者を駅前に
あるいは薬局の軒先に
ぽつねんと置き去りにして
帰宅してしまうのである。
まるで戦に敗れて野に倒れた兵を
勝鬨の喧騒の中に置き捨ててくるがごとく
無情にもブケファラスを忘れるのだ。
もしかしたら、いや、恐らくは
私は自分自身の「どうでもよさ」
に甘んじていたのだと思う。
そして先日
ついに、その所在が、完全に、朧になった。
私は目を剥いた。
どこを探してもいない。
あの頑丈なサドルの質感も
幾度も滑り落ちたグリップの
あの微妙な手触りも
もはや夢のかたちに崩れていた。
スタバのベンティをぶちまけられても
ブレーキのワイヤーが切れかけても
ひたむきに私の帰りを
待ち続けていたあの子が
もう、いない。
まさかとは思った。
いや、きっと、これは家出なのだ。
堪忍袋の緒が、とうとう切れたのだ。
ブケファラスの、哀しみに濡れた沈黙が
今ごろどこかの公園のベンチ脇で
空を見上げている。
そう思うと
私はひどく罪深く、ひどく哀れだった。
捜索の旅に出た。
コンビニ。スーパー。駅。薬局。
まるで失くした指輪を求めて
森を彷徨う妖精のように、私は歩いた。
心の中で静かに歌が流れる。
~こんなとこにいるはずもないのに~♪
…私の中のリトル山崎まさよしが
喋り過ぎたMCのツケを払い戻しながら
小さく小さく縮んでいった。
いない。いないじゃないか。
どこへ行った、ブケファラス。
私のすべてを乗せて走った、あの黒き骸が。
……あった。
電気量販店の前である。
そうだ、私はここで
ブケファラスを買ったのだった。
このビルの4Fのフロアで
私たちは出会った。
その思い出の丘の麓に
あの子は静かに佇んでいた。
再会の瞬間、私は呆然と立ち尽くし
まるで母の胎内へ
還ったかのような温もりに、身をまかせた。
――「実家に帰らせていただきます」
無言の意思表示だったのかもしれない。
私は泣いた。
ブケファラス、ごめんよ。
これからは、もう二度と置き去りにしない。
君の気持ちに応えるよ。
寄りを戻そう、今度こそ、まことに。
――翌日、私は再び、ブケファラスを
河川敷に乗り捨てて帰ってしまった。
太陽が、あまりにも眩しかったのだ。
空から降る光線が
まるで神の鉄槌のごとく私の目を潰し
視界を奪った。
私は己の忘却を悔いながら
それでもなお、「仕方ない」と呟いた。
仕方がないのだ。
人は忘れる生き物だから。
ねえ、ブケファラス。許しておくれ。
また、迎えに行くから。
?アカリ?
投稿日時
──幸福そうな人間だけが
びしょびしょになっても許される。
日めくりの角が湿気にふやけて
まるで忘れられた恋文のように
くたびれていた。
私は宣材写真の撮影という名目で
紫陽花の咲く小径へと赴いた。
撮影などというと何やら晴れがましいが
要するに、他者のレンズに
自分の顔を明け渡す儀式である。
しかもその日は、雨であった。
最初は陽が差していた。
絹地のように柔らかく
空気は穏やかに揺れていた。
けれども、ほどなく雲は不穏な構えを見せ
やがて糸をほどいた針子のように
空の目から雨粒がこぼれ落ち始めた。
私はふと、あの映画──
『ショーシャンクの空に』
を思い出していた。
雨を両腕で抱く、あの解放の瞬間。
涙と汗と雨が区別なく頬を這う
救済の場面。
一度でいい。
あれほどまでに、思いきり雨を
真正面から浴びてみたい──
と、そう思った。
けれど、すぐに苦い悟りが襲う。
あの感動は、檻と鉄格子と絶望とを経ての
果ての果てにある。
自由を知らぬ者に、解放の歓喜は訪れまい。
無為に雨に濡れたところで
ただの風邪をひくだけの話である。
そうして、我に返ったときには
私の目の前に
ずぶ濡れのカメラマンが立っていた。
彼は黙々とシャッターを切っていた。
着ているレインコートは
もはやただの濡れ雑巾と化し
水を弾く気配もない。
私は、思わず声をかけた。
「だ、大丈夫ですか?」
すると彼は、破顔一笑、天使もかくや
というような屈託なき笑顔を向けてきた。
「普段から鍛えてますんで!」
何をどう鍛えているのか。
まさか、雨の中で毎朝
『一人ショーシャンクごっこ』
をしているのではなかろうか。
脳裏に
雨に打たれる彼の裸身が脳内再生され
私はそこで笑いをこらえるのに
必死になった。
撮影は、思いのほか楽しく終わった。
濡れ鼠の一行は
あたかも戦から生還した騎士のように
満ち足りた面持ちで帰路についた。
──帰宅して
写真データの総量を確認したら
なんと五百枚。
私は一瞬で顔を歪め、天を仰いだ。
これを選定するのか。
これを……。
けれど、私は彼のことを思い出した。
雨にも笑顔を絶やさず
まるで空の涙さえ
肯定するようなあの人の姿。
写真と向き合う背中に、ほんの少しだけ
気概のようなものが宿った気がした。
私も、彼のように鍛えていかねばならぬ──
そう、人生のシャッターはいつでも
雨のなかで切られるものなのだから。
…とは言え、風邪をひいてまで
『一人ショーシャンク』
に励むつもりはない。
私はそれほど、自由に飢えていない。
今のところは、まだ。
?アカリ?
投稿日時
――ほんの出来心で触れたぬくもりが
しばらく私を見張っていた。
思えば、あれは川崎という名の町の
春の終わりの午後であった。
陽はまだ高く、けれども私の影は
すでに傾きかけていて
これはもう、何かが終わる徴かもしれぬと
ひとり勝手に哀しくなった。
私は、鳩に触れてしまったのだ。
それは罪なのか、それとも恩寵なのか
私にはいまだに分からぬ。
というのも、私は、鳩などというものは
世の理のようなもので
決して人の手など届かぬところに
いるものと思っていた。
花の咲ききる寸前の蕾のように
微かなる距離と緊張を持って
ただ眺めるだけの存在だった。
河川敷にいる鳩は
ことごとく私を侮っていた。
彼らは私の足音を聴いたとたん
首をひと振りして身を翻し、空へ、草へ
どこへともなく逃げ去るのである。
それが礼儀であり、慎みであり
何より自然の摂理というやつであった。
だが、川崎の鳩は、違っていた。
私は、その鳩に
正面から見据えられたのだ。
いや、むしろ
無視されたと言った方がよい。
駅前の、曇天を吸ったような
灰色のアスファルトの上で
彼らは瞳孔を開いたまま
ただボンヤリとしていた。
まるで、夢も野心もすべて
喰い尽くされた猫のような顔をして。
実家にいた
老いた猫(名をタケミカヅチという)の目に
私は川崎の鳩を見た。
安逸と、無警戒と
そしてちょっぴりの諦念。
すでに何かを喪ってしまった
動物特有のまなざしだった。
餌付けというのは、人の手が
他者の尊厳にじかに触れる行為である。
そして触れられた側も
いつしかそれを望むようになる。
「これは、ひょっとして……。」
私は膝を折り、手を伸ばした。
恐る恐る。
かつて、恋人の頬に触れようとして
それでも触れられなかったあの日のように。
やさしさと後悔とが掌に混ざっていた。
触れた。
羽の柔らかさは
記憶にある絹の肌のようであった。
私は戦慄し、そして笑ってしまった。
だが、鳩は飛ばなかった。逃げなかった。
――そのかわりに、ついてきた。
私は立ち上がり、駅の方へ歩き出した。
改札の前で、ふと振り返ると
あの鳩がいた。
三歩下がって、また一歩近づいて
まるで求婚でもされている
かのような足取りで
私のあとを追ってきていた。
私は、餌など持っていなかった。
ただの、通りすがりの
なんの役にも立たぬ女である。
けれど鳩は、そうとは知らぬ顔で
改札の手前までやって来た。
「…なんだか悪いことをしたなぁ…。」
私は思わず呟いた。
ほんの少し手を伸ばしたばかりに
余計な期待を抱かせてしまった。
ああ、こうして人間はまた一羽
信頼を裏切るのだ。
鳩はしばらくそこに留まり
やがて飽いたように
また別の誰かのあとを追っていった。
私は、その背中に安堵しながらも
妙に胸がつかえた。
町というのは、魂の温度で出来ている。
川崎は、鳩を人に慣れさせ
人を鳩に寛がせた。
だが私は、そのやさしさの深淵を覗き込んで
そっと目を逸らしてしまったのだ。
鳩は、私を許してくれるだろうか。
あるいは、私自身が
私を許す日が来るだろうか。
いや、きっと来るまい。
なぜなら私は、その羽根のぬくもりを
もう一度だけと思いながら、今日もまた
鳩に会いに行ってしまうのだから。
?アカリ?
投稿日時
――冬のような声しか知らなかった人が
涙を流すとき
私はほんの少しだけ春を信じた。
なんだか郷愁に耽ってしまったので
前回に引き続き音響時代の思い出を
もう一声、綴ることにする。
その職場には、春が来なかった。
いや、来てはいたのだろう。
だがそれは
石造りの倉庫の裏に咲くスミレのように
誰にも気づかれぬかたちでひっそりと咲いて
やがて風に吹かれて散っていく
――そんな類の春であった。
音響という名の、男ばかりの荒れ地。
その中に、私と、もう一人の女の子がいた。
同期だった。
まるで荒波に浮かぶ
二艘の小舟のような存在だった。
帆も舵も持たぬまま
ただ嵐をやりすごすために
時には手を取り、時には押し合って
何とか波の上に浮いていた。
最初の頃は酷かった。
どの音も割れて聴こえるような怒号の嵐。
配線ミスどころの話ではない
私自身の存在そのものが
誤接続であるかのように思われた。
それでも、彼女と一緒だったから
なんとか耐えた。
彼女の手元から漏れる笑い声や
わずかな囁きは、あたかも
チューニングの合ったモニター音のように
私の心に小さな平衡をもたらしてくれた。
「お菓子配ろうか」と、彼女が言った。
「話しかけてみようか」と、私が言った。
それは、孤島で狼煙を上げるような
生存戦略だった。
言葉も、微笑みも
すべては点滅する信号だった。
――生きてます、と。
そんなある日、彼女がぽつりと呟いた。
「今度、先輩の誕生日、やってみない?」
言い出しっぺは彼女だったが
私は即座に賛同……できなかった。
その先輩は、普段から
雷鳴のような怒号を響かせる人だった。
仕事に一分の隙も許さず
ミスひとつで周囲の空気を凍らせる。
そんな人に、ケーキなど渡してよいものか。
笑われるのではないか。
いや、もっと厄介なことになるのでは。
そんな躊躇が
喉にひっかかったささくれのように
しばらく抜けなかった。
けれど彼女は言った。
「そういう人だからこそ
嬉しいと思うんじゃないかな」
――私は、うなずいた。
たとえ滑稽な結果に終わっても
灯りを灯そうとしたことは
無駄にはならないような気がした。
近くのケーキ屋で
チョコレートケーキを予約した。
会社の会議室にロウソクを立て
スピーカーに音楽を流し
同じく無愛想な先輩たちを
ひとりずつ巻き込んで
サプライズの用意をした。
本 番、音を鳴らしながら、私たちは歌った。
????? ???????? ?? ?????
その先輩は、目元を拭いながら笑った。
あんな風に笑う人だったんだ、と思った。
きっと、私たちの知らない
過去や哀しみや苦労が
この場のどこかに混じっていたのだろう。
誕生日というのは、祝われる人よりも
祝う側の救いなのかもしれない。
バースデーが、私は好きだ。
それはちょうど
よく調律された一音のように
小さく、確かに誰かの胸に響くからだ。
それは派手な演出ではなかった。
誰かの生まれた日を
ただ思い出してあげる。
それだけのことが
どれほどの慰めになるのかを
私たちはあの日、知った。
そして私は思う。
私が配線できなかったもの。
それは、あの時の涙にこそ
通っていたのではなかったかと。
?アカリ?
投稿日時
――文字で埋めたこの掌が
誰の手も握れなかったのは
当然だったのかもしれない。
あの頃の私は
何かに取り憑かれていたように
「リーダー」を名乗った。
いや、名乗ったというより
誰も引き受けぬ役回りを
さも気高き奉仕者のように拾い上げたのだ。
音響の専門学校。
白々と蛍光灯の灯る実習室で
マイク、スピーカー、ミキサー、アンプ。
そこに絡みつくケーブルの群れは
まるで意思を持つ生物のように
私の足元に絡みつき、転ばせ、嘲り
そして試した。
音が出ない。マイクは叫ぶようにハウる。
スピーカーは沈黙を守り
先生の眉間はただ険しくなるばかりだった。
「お前、一人で何をそんなに
忙しげにしてるんだ。
友達、いないのか?」
その一言が、槍のように私の心を貫いた。
そう、私は一人だった。
独りで、何もかもやろうとしていた。
いや、やれると思っていた。
その思い上がりが、今にして思えば滑稽だ。
ミキサー卓の前に立つ私の両手は
メモで埋め尽くされていた。
手の甲も、平も、腕に至るまで
黒いインクの走り書き。
あれではまるで、芳一であった。
耳などとうに捨てて
眼と指先だけで全てを制しようとした
哀れなる幻術師。
だが、耳を塞ぎ、口を噤んだままでは
音など掴めるわけがない。
先生の声は、いつも叱責であり
私の失策の数だけ、私の心の地図に
赤鉛筆のバツ印が増えていった。
チームというものがあった。
名ばかりの「リーダー」であった私は
ただ己が失地を取り戻すためだけに動き
仲間の存在を
風景のように見過ごしていた。
しかし、本来、チームとは
孤独を埋めるための方便ではないのだ。
それは信頼という
見えぬ糸で結ばれる網である。
誰かと会話をすること。
そんな些細なことさえ
私には勇気が要った。
閉じこもった部屋の壁紙のように
私は自分の無力を貼りつけていた。
終わりは唐突で、そして空虚だった。
実習の最後に残されたのは
不完全燃焼という言葉だけ。
燃えきれぬ火は
煙となって私の胸をくすぶらせた。
驕りは罪である。
私は、私の独善的な美学を恥じた。
手に負えぬ火を抱えて走り回った
滑稽なピエロ。
その滑稽さが今なお
音もなく心のどこかを鳴らしている。
もっと話せばよかったのだ。
もっと頼ればよかったのだ。
もっと、耳を澄まし
目を合わせればよかったのだ。
それは些細なことだった。
だが、音を扱うということは
他者の音を聴くということに
他ならなかった。
あのときの私に言いたい。
「音を出す前に、誰かの声を聞け。
大丈夫。私は私を笑ったりしない。」
?アカリ?
投稿日時
仕方がない。
私は無礼千万を承知で
1階の塀を蜘蛛男よろしく這い上がり
外の生け垣の隙間に着地すると
人目がないのを確認し
なるべく足音を立てず
闇夜に紛れるよう気配を消して
正面玄関へと向かった。
もはや、電話を終えてから
1時間が経とうとしていた。
肩を上下させながら
インターフォン前に辿り着いた私は
友人の部屋番号を押した。
…応答がない。
まさか、まだ電話中なのだろうか?
そういえば私はこの期に及んで
友人を慮って電話をかけていない。
流石にもう電話も済んでいることだろう。
私はLineの発信ボタンを押した。
「ツウワチュウノタメ
オウトウスルコトガデキマセン」
そんな馬鹿な。
いくら仕事の電話といえど
朋友を外へほったらかしにして
1時間以上も澄まし顔で
応対しているような者があってたまるか。
そんなものはもはや友人ではない。
いや、人であるかすら疑わしい。
人界に迷い込んだ悪鬼羅刹だ。
サタンの手下だ。地獄の獄卒だ。
永遠にインフェルノだの
ジュデッカだのゲヘナだのの
底へ封じられるべき悪徳の徒だ。
私は何度もインターフォンを鳴らした。
余り長く寒月の下に
身を晒していたものだから
身体がバイブレーションしている。
友人に会いたくて会いたくて震える。
西野カナ化した私の意識が虹の彼方に
飛んで行ってしまう前に
早くこのコキュートスから
連れ出していただきたい。
しかし一行に友人からの応答はない。
おかしい。いくらなんでも不人情が過ぎる。
意図的に人心を弄んでいるとしか思えない。
そこで私はハッとした。
これは、最初から仕組まれた
「GAME」だったのではないか?
そういえば友人は、「SAW」を
観終わった直後に「I wanna play GAME」
などと、口真似に思わせて
小声で言っていたではないか。
なんということだ。
だとしたら「GAME」が始まったのは
あの携帯が鳴った時…
そして私の助かる鍵は、平和ボケせずに
きちんと必要な物を身に着けて
万事に備えて外に出たかどうか
だったのではないか?
思えば友人は
今に第3次世界大戦が始まるだの
どうのこうのと陰謀論に感化されて
熱弁を奮っていたことがあった。
私は友人に
兵士として甲乙丙どの種にあたるかの
テストをされていたのではないか?
そして愛国心強き友人のことだ
丙種にも不合格な役に立たぬ非国民は
このまま打ち捨てて構わぬ
という算段なのではないか?
「It's GAME OVER!」
ガチャリと閉まったあの時の
扉に重なった声が、今にして思えば
友人のものだった気がしてきた。
「SAW」の最初の
浴槽のシーンが頭に浮かんだ。
あれは私だ。
目の前にあった財布を取らなかった私は
とっくに落第していたのだ。
「It's GAME OVER…」譫言のように
そう呟きながら玄関に蹲り
鍵も財布の中、帰る家もなく
このまま打ち捨てられる
この身を呪いながら
頭の中で「SAW」の
エンドロールが流れ始めた。
私もまた
エンドロール中に泣きわめくべきだろうか。
憐れな醜態を演じた私を
誰かが助けてくれるだろうか。
「…何してんの?」
寂寞としていた背後から、突如として
天からの詔が如き調べが落ちてきた。
友人が、マンションの自動ドアを
開けて立っていたのである。
半ば宵闇に打ち捨てられた私の位置からは
エントランスの光を
背に受けて照らされている友人に
まるで後光が差しているかのように見えた。
彼こそは仏陀の化身に違いない。
久遠の別れを唆す残月の光の冷ややかさに
樹幹を抜ける冷風が
暁の近くを告げる哀しさに
その曙光に焼かれる覚悟をしていた私に
突如として御仏の霊廟は開かれた。
あんなに重々しく
現世と幽世を隔てていたかに思えた扉が
実に軽やかに、御仏に仕える従者の如く
従順にして大人しく
横に鎮座して佇んでいる。
私はありがたさに目頭から雫を迸らせ
「なんで全然出てくれないのよ!」
と、当たり前に癇癪を起こした。
「いや、あの後、廊下に出てもいないし
どこかに買い物にでも行ったのかと
思って待ってたんだよ。」
「財布置いて行ってたでしょうが!」
「そうなの?ああ、多分それ
毛布に隠れて見えなかったんだ。ごめん。」
「でも何度も
インターフォン鳴らしたでしょうが!」
「それな。なんかカメラに映ったお前が
細かに動いてるせいで残像しか見えなくて
怖くて開けれなかったんだよ。」
「じゃあ電話は?
通話中で出られないって、どういうこと?」
「ああ、あれは単純に電話が長引いちゃって。
すっかりお前のこと忘れてた。ごめんね。」
サタンは、後光を差して現れ
人を欺くのかもしれない。
我が友人は、御仏か、悪魔か。
いや、これは、ジグソウではないか?
友人は自分の不興を買ってまで
私に財布のかけがえのなさを
教えてくれたのだ。
「SAW」にて、人は命の尊さを忘れていた。
友人宅にて
私は財布の大切さすら忘れていた。
…電話中、友人は、
私の存在をも忘れていた。
私の友人は、やはり、サタンかもしれない。
?アカリ?
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