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アカリ(22)
T164 B90(E) W58 H89
思えば、幼少期。
母の実家に行く父の車の中。
大所帯を無理やりに詰め込んだ
鉄の箱に閉じ込められた私は、
東京から片道8時間、
ろくに身動きも取れぬまま
揺られ続ける羽目となった。
永遠に終わらぬ焦熱地獄の
責め苦を味わい続けた私は、
解放された途端に意識を失った。
気が付くと、病院のベッドに寝かされ、
点滴を受けていた。
何でも、車から飛び出て地面に
そのまま倒れ込み、全く起きないので、
救急車で緊急搬送されたとのこと。
あの日から、私は父母のことを、
半分だけ、ほんの半分だけ、
「シリアルキラーではないかしら?」
と疑っていた。実は今も少し疑っている。
そんな私が、
なんで屋形船に酔わないと思っていたのか。
げに恐ろしきは金の魔力か、
はたまた私の頭に広がる忘却の空か。
兎に角、
こうなってしまっては配膳どころではない。
酒、魚、醤油、磯の香りが、
出鱈目なダウナーをかわして
吐き気を際限なく呼び起こす。
三半規管のダンサーはソーラン節に飽きて
ブレイクダンスを始め、
良い感じのキメ顔を
模索しながら廻り続けている。
今にも船床を鮮やかで哀しい
ベルベットに染めようとする
気配の私を尻目に、
他のコンパニオンたちは、
慣れた手つきで配膳をこなす。
ああ、この子たちは水陸両用なのだ。
私は違う。陸専用。
むしろ、布団専用だ。
その中にあって、一際テキパキと
手際のよい働きをして魅せる影がある。
よく見ると影の正体は、
何を隠そう私にこのバイトを
斡旋してくれた諸悪の根源、
否、優しき仲介者のG子ではないか。
G子はいつものんびり笑顔を浮かべていて、
吹奏楽部ではホルンを
優しく吹いているような地味な子だった。
彼女がこんな高機動な性能を
備えているなんて思いもしなかった。
ふと、私は騙し討ちに
会ったような気持ちにさえなった。
嵌められた。G子は本性を隠していたのだ。
奴は人攫いに違いない。
私はこの後、G子に担がれたまま、
親方に供物として捧げられるのだ。
「わたしゃ、売られていくわいなぁ…。」
悔しさと情けなさで、
私は居直り強盗よろしくふて腐り、
物理的にも斜に構えていた。
限界なのである。
すると突然、
G子が私に向かって駆け寄ってきた。
ああ、ここが年貢の納め時か。
私は迫りくるB29の空襲を前に
最後の竹槍さえ打ち捨てた。
「大丈夫?休む?」
「いや…そういうわけには…。」
「やっておくから大丈夫だよ!
体調悪い時くらい頼ってよね!」
「…あい…とぅいまてん…。」
負けた。完敗だ。
私は人攫いの情け深さに
スジャータの粥の温もりを感じ、
心の臓ごと持っていかれた。
その日一日、
迷惑をかけっぱなしだったにも関わらず、
G子は常に、私に屈託ない笑顔で、
いつものように明るく接してくれた。
私の猜疑心を、軽やかに蹴飛ばして、
尚も頼もしきG子の背中は、
サッカーの神様たるその名に恥じない
紅の焔を湛えていた。
それはグラウンドを吹く風に靡びき、
芝を濃く照らす陽気と混ざって、
鮮やかな女性らしい薄桃色の香りを燻らせ、
私の鼻孔を擽り、肺臓を満たした。
私はG子になら
蹴転がされてもいいようにさえ思った。
結局、私は役にも立たず、
終始、蒼白な顔で、
ただただ海面に間違って上がってきた
藻の如く揺れているばかりであった。
最後の掃除だけは、
必死に力を振り絞って手伝った。
親方が「無理すんなよ?」
と声をかけてくれた。
そんな親方の心配の声に
背中を押されながら、
顔面蒼白で屋形船から降りた。
シリアルキラーの車から降りた
あの時と違って、
今度は己が情けなさが悔しく、
倒れそうだった。
心の方が顔面より余程、
蒼白く後ろ暗い色に染まりきっていた。
居たたまれない程に
寂しい切なさで一杯だった。
親方は
「頑張ったな!学生は体が資本だからな!」
そう言って、
何の役にも立たなかった私に対し、
バイト代の5,000円全部を、
茶封筒に包んで、
優しい笑みまで添えて渡してくれた。
バイキングだと思い込んでいた
親方の中身は、リトルマーメイドだった。
これが、
私が人生で初めて受け取ったお給料だった。
もう、屋形船には行けなかった。
行きたくもなかった。
だけど、忘れられない。
あの酔いも、あの優しさも、あの海風も。
何もかもが、私の青春の残滓として、
胸の中にしつこく残っている。
今でも夢に見る。あの屋形船。
配膳中によろめいて、
G子に抱えられる夢を。
どんな悪夢よりもリアルで、
どんな現実よりも、温かい夢を。
?アカリ?
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