子供のころ、実家の古いテレビで見た光景を、彼女はまだ覚えている。
画面いっぱいに広がる緑色の揺らめき。ナレーターが「ノルウェー」と言った瞬間、世界は急に遠くなった。

いつか、あれをこの目で見たい。

それは夢というより、胸の奥に沈んだ小さな約束だった。

二十歳になり、大学二年の冬休み。
講義もなく、街は浮かれ、時間だけが妙に余っていた。アルバイト代を計算しながら、彼女は現実と向き合う。航空券、宿泊費、現地ツアー。数字は具体的で、夢は思った以上に重かった。

高時給。短期間可。未経験歓迎。
求人広告を閉じても、指先に残る感触は消えなかった。

怖さは確かにあった。
一線を越えてしまう不安。
後ろめたさと迷いが、何度も胸を締めつける。

それでも、あのオーロラの光が、静かに背中を押す。

「冬休みだけだから」

そう言い聞かせ、彼女は面接の扉を開けた。

面接は、想像していたより淡々としていた。
年齢確認、注意事項、仕事の流れ。
感情の入り込む余地はなく、言葉はすべて実務的だった。

頷きながら話を聞いていると、スタッフのスマートフォンが短く震えた。
画面に視線を落としたその人の表情が、ほんの一瞬変わる。

「……ちょうど、予約が入りました」

その言葉が、空気を変えた。

「今すぐ、ではないですが。
　もし可能なら、このあと行けます」

頭の中が、静かになる。
予定より早い。
考える時間は、もう与えられない。

本当に、いつか行くつもりだった？
「そのうち」を、何年続けるつもりだった？

逃げ道は、確かにあった。
「今日は面接だけで」と言えばいい。
それでも、彼女の口から出た言葉は違った。

「……大丈夫です」

自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえたことに、少し驚く。

面接中に入った、最初の予約。
それは偶然かもしれない。
けれど、もう戻れない一線を、確かに越えた気がした。

面接はそのまま終了し、案内された待機室で一人になる。
時計の音が、やけに大きい。
暖房は効いているのに、指先は冷たい。

怖い。
それでも、ほんの少しだけ楽しみだと思ってしまう自分がいる。

彼女は目を閉じ、ノルウェーの空を思い浮かべた。
凍える寒さの中、ただ夜空を見上げている自分。

その光景が、心を静かに整える。

「……大丈夫」

小さく呟き、立ち上がる。
彼女は静かにドアノブに手をかけ、扉を開けた。

扉の向こうに、まだ名前のついていない世界がある。
怖いはずなのに、想像してしまう。
どんな空気で、どんな言葉が交わされ、どんな自分がそこに立つのか。

知らなかった感情に触れるかもしれない。
今まで避けてきた一面を、否応なく見せられるかもしれない。
それでも、だからこそ、目を背けずにいたいと思った。

これは、誰かに与えられる経験ではない。
自分で選び、自分で踏み込む、初めての領域だ。
結果がどうであれ、「知らないまま」よりは、ずっとましだと感じている。

ノルウェーの空を初めて見たとき、
きっと言葉を失うのだろう。
その前に、自分自身にも、同じように驚いてみたい。

怖さの隣で、好奇心が静かに息をしている。
それはまだ小さいけれど、確かに消えてはいない。

彼女は、その感情を否定せず、手のひらに乗せたまま、
一歩、前へ進んだ。

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